皴(しわ)には、今は見えない人影や時間を感じとることができる。
それを私は再び触れて、懐かしく思う。
―――2020年
新型コロナウイルスによるパンデミックは、人類の歴史にとっても、また私の人生の節目としても象徴する出来事となった。
ウイルスという視覚的には「見えないもの」の脅威を知り、それは人間の生活が変わるほど大きなものだった。
私は4年間、写真にある視覚情報以外の存在、そこに内在している時間や祈り、そして写真と向き合う「私」の痕跡をテーマに針と糸で隠喩的に表現を続けた。
写真のイメージを縫うことでできる痕跡は、「見えないもの」の存在をより強く象徴させた。
2020年 4月 東京に緊急事態宣言が発出された。
街に人はいなくなり、ネット上で顔をあわせるだけの友人。生身の人間と接するのは家族のみ。
私は家という囲まれた空間で長い時間を過ごした家族の、そしてそこに属する私の「見えないもの」について考えることにした。
家族という衣服を脱いだ時、目に見える皮膚の皴(しわ)を形成する、一つ一つの細胞の「情報」はわたしたちを組織として再認識させる。
身体(トルソー)に纏う赤い糸は個人が纏う遺伝子情報、それらを身体中に運ぶ「毛細血管」を想起させる。
つぎにわたしはリビングに飾られた家族写真をみる。
家族写真は、フォーマットを用いれば他人でも成立してしまうような気がした。
錯覚しながら認識する演者のように、わたしたちは写真の中で家族を演じたように見えた。
私自身も写真のなかに入り、演じた家族写真をプロトタイプとし、様々な形に変え、家族という組織について今一度考えた。
認識や錯覚が交錯していく人間同士の血のつながりは、写真にはうつらない。目には見えない家族写真を私は模索する。
写真に写る家族一人一人の、手のひらの皴を写真に落とし込んだ。
縫うという行為には、私と写真が向き合い、そして私と家族が向き合う時間でもあった。
皴(しわ)には、今は見えない人影や時間を感じとることができる。
それを私は再び触れて、懐かしく思う。