パンデミックにより人との直接的な関わりが断たれ、人の存在にリアリティがなくなっていく。SNS はひどい言葉で溢れ、何が本当で何が嘘なのかもわからない。画面越しの遠い世界の出来事をただ傍観し、右から左へと流れる情報に身を委ねていく。そして何も感じなくなっていく。
私たちはこの虚無感とどう向き合えばいいのか。わからないなりに、しかし「わからない」という確実な思いをもとに、写真という言葉で「思索の記録」を綴った。
わたしたち一人ひとりが、できるだけ⻑く、答えが出ない、出せない状態の中にいつづけられる肺活量を持つこと、いってみれば、問えば問うほど問題が増えてくるかに見えるなかで、その複雑性の増大に耐えうる知的体力をもつこと。いま一つは、迷ってもいつもそこに根を下ろしなおすことのできるたしかな言葉、そこから別のさまざまな言葉を紡いでゆけるあきらかな言葉と出会うこと。
( 鷲田 清一著『濃霧の中の方向感覚』から )
私はこの虚無感というものを克服しようとした。しかし、制作していく中で虚無感というものは、持ち続けるべきものだと感じた。先が見通せない世界で「必死に生きていくこと」、そして虚無感を抱き続けることで「どうやったらその状況に耐えられるのか」を考えるようになった。