彼が見てきた災害や救急の現場も、私が体感する花の終末も、私たちの関係の脆さも、坦々と毎日の中に挟まっている。
盛りを過ぎた花は売り物にはならない。
ちょっとした傷物も。
そうやって心無しに切り棄ててしまう、花の命はどこまでもとは続かない。
綺麗だけでは語れない、散る姿が儚いと魅了されるだけではいかない、そんな世界も存在している。
それでも私は花を束ねる。
サイレンに敏感になった。
でも聞こえるたびに嫌な気持ちにはならなくて
今日、あの人もこんな風に生きていると、私は安心している。
有事でも平時でも関係なくあの場所で生きているんだなと、
私が知っている限りを根拠に、きっと私だけが安心している。
聴く音楽を選ぶときに歌詞を優先するようになった。
でも、映画やドラマや音楽のドラマティックな悲劇も喜劇でもなくて
やさしくて穏やかな現実があると私は知っている。
それでもいつかは…と、考えてしまうのは幾つかの恋を終わらせてきたからで、
それをまた繰り返すことをどこかで感じてしまう心が悲しい。
これまでどんな現場で、逝く人をどれだけ見てきたか、少し聞いた。
救えなかった命を「それがその人の寿命だから。」と、言われたとき
ポジティブでもない、でもネガティブに捉えすぎていない、そんな死もあると初めて知った。
災害が起きれば私は一人になるしかない。そんな話も聞いた。
それを承知で隣にいたいと思っている。
知ることはきっと無い彼のその姿、知らないままで生きていたいと思ってしまう。
そんなことは嘘だと思っているくらいで今日も平和ボケしながら生きている。
終わることをどこかで過ぎ行くように見ていた。
だけど、実感する。とてつもなく、穏やかな一日が毎日が、今日も明日も多分愛おしいということ。
そして、誰よりも大事で、これが長く続いていくと信じていたい。
今日も隙間から注ぐ朝を緩く集めていく。