F1-10年の今-

 2011年に起きた東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故により多くの人が被害に遭い、生活が一変した。あれから10年が経過した今、「復興五輪」と銘打たれた東京五輪・パラリンピックの聖火リレーが福島からスタートをするなど、日々生活をしていて「復興」という言葉は聞くが、実際の被害地域の様子を見聞きすることはほとんどない。私は福島の「今」を確認すべく足を運んだ。

 

写真は大熊町市街地と福島第一原子力発電所(奥左)=11月

 事故から10年が経過した福島第一原子力発電所。左から建物の骨組みだけのものが1号機、2号機、3号機、4号機。2号機のみ水素爆発を起こしていないため、原子炉建屋が残っている=9月、富岡町

 11月に撮影した同発電所。クレーンの位置が変わっており、作業が進んでいることが確認できる=富岡町


 大量に設置されたソーラーパネル。中央奥は福島第二原子力発電所=11月、富岡町

民家付近に建てられている鉄塔群=10月、富岡町


 

 福島県内には原子力発電所2か所に加え火力発電所が多数存在し、至る所にソーラーパネルや鉄塔が設置されており、電力産業と深い関わりにあることが伺える。

 

 「この先帰還困難区域通行止め」の看板と共にバリケードで出入り口が封鎖された民家と放置された車両=11月、富岡町

 生活が失われ、植物が生い茂る民家=9月、大熊町


 

 放射線量が高いレベルにある区域は「帰還困難区域」と呼ばれ、バリケードなどの物理的な遮断がされ、住むどころか立ち入ることができない区域が広範囲に渡る。玄関が目と鼻の先にあるにも関わらず帰宅することができない。

 

 除染のために解体され更地となった帰還困難区域内の住宅地。門はバリケードで塞がれ表札だけが残されている=11月、大熊町

 

 上空からみた住宅街。除染のために解体され更地となった土地が目立ち、残された家屋は屋根が崩れている=11月、大熊町

 原発事故の被害に遭い、避難のために住み慣れた土地を離れざるを得ない状況に陥った人々に取材をした。

 事故の直後に詳細な行先は告げられずにバスに乗せられ日本各地の避難所へ避難することになり、ここで多くの親戚や家族が離散したという。事故から10年が経過し、帰還困難区域が縮小をして自宅へ帰ることが可能になったが、元の生活は程遠い。数え切れない思い出のあるこの地を離れたくないという思いがあるが、若者は仕事や学校の関係で簡単には戻ることができず、帰宅を諦め避難先に移住する人が多い。その結果帰宅をした人の多くは高齢者であり、街の高齢化が一気に加速した。

 

「事故前には当たり前だった学生が登下校をする様子が見られなくなって、街に活気が失われ寂しい」

と老婦人は話す。

 

2021年4月に南相馬市小高区の4小学校が統合し、小高小学校として開校したが、事故前は4小学校の合計が700人前後だった生徒数が開校時点で60人程であり、令和7年には新入生が0人の恐れがある。それほど高齢化が進んでいる。

 とある人はJR常磐線の双葉駅に対して「我が地元の最寄り駅が遥か遠くになってしまった」と悲しげな表情を浮かべ、またとある人は「一生をこの地で終える予定だったのに突如変わった。生活を壊された。せめて墓だけでも先祖が眠るこの地に。」と話す。

 事故前は旧大熊町役場のすぐ近くに住んでおり、現在は土地を売りに出している女性に話を聞くと、「いつまで経っても土地が売れるどころか現地を見に来る人すら現れない。どうせ売れないから国か東電が責任をもって買い取って欲しい。」と悲痛な叫びをあげた。

 大熊町市街地帰還困難区域内の商業施設。車両が放置され、草木が生い茂っている。=11

 同市街地帰還困難区域外の商業施設。敷地内は除染作業車や作業員の駐車場として利用されている=11


 帰還困難区域周辺では随所で交通制限がされ、通行許可証の確認が行われている=11月、大熊町

 帰還困難区域内にある大熊町老人福祉センター。広域避難所に指定されているが、原発からほど近いこの場所が事故の際に避難所として機能したのだろうか=9


 1031日に行われた衆議院選挙の福島県第5区候補者のポスターが掲示された大熊町下野上三区集会所。このポスターは何人の有権者の目に留まったのだろうか=11

 校庭に作業車両が停車する大熊町立大野小学校。現在は会津若松市に移転し授業を行っている=11


 福島県内初の震災遺構として20211024日に開館した、浪江町立請戸小学校の校舎からみた福島第一原子力発電所の排気筒(中央奥)=11

原子力発電所の事故は数え切れない程多くのモノを壊したが、壊れたままではない。被害を受け入れ前に進もうとしている人がたくさんいる。そのうちの1つである双葉食堂に足を運んだ。

双葉食堂は南相馬市小高区にある昭和26年から続く老舗のラーメン屋だ。現在は2代目店主の豊田英子さんと6名の従業員で切り盛りしており、開店前から客の列ができ閉店まで途切れることが無い。コロナ禍で飲食業界が大打撃を受けている中、そんなものはもろともしない活気で溢れている。食堂は原子力発電所の事故によって避難のために一時閉店をしたが、周囲の人々の支援を受けて避難先の仮設店舗で営業を再開し、現在は元の場所に戻って営業をしている。

 店主の豊田さんに事故前後の変化を問うと「一番大きい変化は来てくれるお客さんが変わった。バラバラに避難したため常連さんとは離れ離れになってしまい、仕事で南相馬に来た作業員や仮設店舗の時のお客さんが新しく来てくれる。だが、帰郷をした際に常連さんが寄ってくれて懐かしい気持ちになり嬉しい。」と笑顔で答えた。お客さんの男性に話を聞くと事故前からの常連さんであり、避難を機に郡山に移住したが食堂の味が忘れられず、定期的に食事をするためだけに車で片道2時間をかけて通っているという。

 

 

 故郷を忘れさせない、帰る場所があることを教えてくれる場所だ。

 

「高齢のため体力的にキツイが、お客さんに美味しいラーメンを

食べてほしいからできるだけ長く続けたい」と豊田さんは話す。

 昨今の世の中では環境問題についての議論が頻繁に行われ、特にエネルギー問題について言及されている。自動車をはじめとする様々なものの電動化が求められており、同時に発電方法が課題となっている。現状日本の電気は7割以上を火力発電で賄っており、電動化と発電におけるカーボンニュートラルを同時に進めるのは困難を極める。福島第一原子力発電所の事故によって多くの人が被害に遭い、10年が経過した今も避難先での生活を強いられている。悲惨な事故を引き起こす恐れがある原子力発電所をはたして稼働させるべきなのだろうか。東北電力の看板のように子どもたちの未来のためになるのか今一度考えたい。

 東北電力の「子どもたちの未来のために」と書かれた看板と20173月末で休校となった福島県立双葉翔陽高等学校(左)。11月現在は除染に向けて解体作業が行われている。東北電力は2か所に4基の原子力発電所を保有する=9月、大熊町