残光 東京湾要塞を偲ぶ

東京湾要塞とは明治から昭和前期に首都東京及び横須賀軍港を脅かす海からの攻撃に備える目的で建設された軍事施設群である。主要な設備は千葉県の洲崎から富津岬の沿岸、神奈川県の城ヶ島から夏島の沿岸と人工島である第一、第二、第三海堡からなる。陸軍によって明治期に整備された砲台は富津岬から観音崎を結ぶラインをメインとし、日清、日露戦争時の敵艦隊からの攻撃を想定したものであった。日露戦争で旅順攻撃に使用されたことで有名な二十八糎榴弾砲は東京湾要塞では千代ケ崎砲台、観音崎第三砲台、第一海堡、富津元洲砲台等に設置された。

この要塞群は日露戦争までに概ね完成したが、艦砲の性能向上、航空機の発達によって陳腐化してしまった。これに加え、関東大震災で壊滅的な被害を受けたこともあり戦略上不要、復旧困難な砲台は廃止された。

大正期には防御が洲崎から城ヶ島を結ぶラインまで拡大し新たな砲台も整備された。太平洋戦争時には海軍が防空砲台や対空機銃陣地、電波探知機を整備し空襲に対抗したが、陸軍の各要塞の砲は航空機には効果がなく実戦で火を噴かずに終戦を迎えた。

 

三浦半島、房総半島には明治期の煉瓦造の美しい構造物から、太平洋戦争末期の粗悪なコンクリート製の戦跡まで様々なものが残る。戦跡というと本土決戦に向けて整備されたコンクリート製や素掘りの壕を想像する人も多いと思う。しかし、戦跡という括りの中でも時代の違いによってこんなにも美しいものがあるのだということを見せていきたいと考えカメラを持って以来撮り溜めてきた。

廃止されてから年月が経ち、現役当時とはかなり景色が変わっているであろう。だが、当時守りについていた人と同じものを見て触れることにより、自分が体験することのできなかった時代を感じ取ることができるように思える。

 

 

戦跡は経年劣化による立ち入り禁止や再開発で消滅する箇所も多い中、観光資源として整備し公開しようとする動きがあるのは喜ばしいことである。しかし、安全対策の観点から手すりや柵を設置し、説明のため案内板を設置することで当時無かったものが目に入るようになってしまったのは当然のことながらも残念である。従って撮影の際には現代のものがなるべく写り込まないように工夫が必要をした。千代ケ崎砲台では教育委員会の方々に撮影の趣旨を理解していただき便宜を図って頂いた。この場を借りてお礼を申し上げたい。