日髙 世基
我々は大なり小なり社会に属して生きている。家族という個人を抜いた社会の最小単位を経て、学校へと属していく。
学校とは国という社会に属していく為の準備期間であり、他者と初めて
関わる小さな社会だ。
今作を作るきっかけは私のSNS嫌いだったことだ。人と接する場の主流がSNSとなっている
現代は、私にとってチープでどこか人間性を欠いているように見える。
一言で言うとつまらない。
なぜ私はそう感じるのか。問いへの答は倫理学にあった。
それが「実存主義」である。
実存とは真実の自分のあり方、私が生きていると言うことだ。
「個」を認識し、他者にも認めてもらうことで自己の実存を決定していく。
そこに他者との話し合いと言うのは必要不可欠であり、
ありのままの自分を他者に晒すことは踏躇されることではなかった。しかし現代はどうだろうか。
特にSNSは若者文化の象徴とも言えるものだ。
不特定多数の情報を知り得る一方、個の繋がりは浅く、全てがトレンドのままであり個を出すことは勝躇される。
みんなやっているからと大衆の中に埋もれ自分の判断ではなく他人からの判断にしか価値を見出せていない。
故に本当の自分を隠し周りと
同じであろうとする匿名的な人間がこうして増えていっていると私は考える。
更に拡張させて考えると学校教育もそうではないだろうか。
「いい大人になりましょう」と言わんばかりの教育はまだ芽生えかけの個を刈り取っている。
同じような大人を形成していくことが学校のあるべき姿なのだろうか。
以上のことから、
・私は作品の舞台として学校を選んだ。
キルケゴールは100年以上も前から、未来を予期したかのような言葉を残している。
誰もが個を見せない、そんな面白くもなんともない風名化された社会を私は否定したい。
誰もが自分が自分であると胸を張って言える社会こそ私の理想だ。